岩国錦見いきりこの由来と特徴


画面をクリックすると大きく表示されます

岩国錦見イキリコ保存会

 岩国吉川藩初代藩主広家公が、慶長5年(1600年 )9月の関ヶ原合戦後、出雲富田月山城より周防岩国へ移封入城するに際し、直参の家臣が戦塵の余臭を残し軍兵の面影を漂わせた行列を組んで、質朴で格調高い奴踊りを踊りながら入城を果たしたことに始まると伝承されている。
 また『いきりこ』なる呼称は、いきり立つ若党又は血気盛んな若者の意と言われ、江戸時代の参勤交代で大名行列に先従した髭奴が代表する『奴』のことを、岩国錦見地区では『いきりこ』と呼んでいる。
 その後江戸時代には、毛利特別支藩として江戸への参勤や、萩本藩への出萩における大名行列の、出城入城の威儀を示現する城内奴として、岩国錦見地区下級武士がその役目を担ってきた。
 明治4年(1871年)廃藩後に、この下級武家屋敷地区である岩国錦見地区『いきりこ連中』に、旧藩主吉川家より貴重な白たくだ(白色やく毛毛槍)一対の払い下げがあり、地区民は殿様より拝領の道具を誇りとして、従来の吉川藩家臣団による『いきりこ』から、新たに地域内有力農家を世話人とする『錦見いきりこ連中』がつくられた。
 明治以降昭和20年代までは、鎮守社椎尾八幡宮33年大祭と白崎八幡宮秋季例祭に、『いきりこ行列』と『山車飾り』を編成して奉納を続け、昭和30年代より観光岩国のイベント『岩国まつり』『錦帯橋まつり』等に出演して、城下町ム−ドの盛り上げに一役買っている。
 使用する道具も、挟箱の金紋覆蓋には文政10年(1827年 )の銘があり、白たくだ;大たくだ等長い歴史を物語っています。
 また、江戸時代後半より一般的に大名行列が、形式化と華美に流れ揆鬢;鎌髭姿の『道中奴』型化したのに対し、地味な旅装と二本差しで温和な踊りを特徴とする『城内奴』の姿を今に留めている。
 行列は、進行先頭の前押え2名から順に、挟箱4名、白たくだ4名、黒たくだ4名台笠2名、立傘2名、大たくだ2名、目付槍2名、後押え2名、計24名のいきりこと、行列両側面を前半部4名、後半部4名計8名の世話役と後見役で編成している。

以上 

b_backnew1.gif (3139 バイト)