『錦帯橋の釘』
■はじめに
最近でも多くの方々が『錦帯橋には1本の釘も使っていない。』と、おっしゃっている。しかし彼らは、実際にそれを確かめているわけではない。どこかで聴いたとか、印刷してあるものを読んだと言う方が多い。中には渡ってみると敷き板や、段板には沢山の釘のようなものが打ってあるように思いましたが、あれは釘ではないのですか、とか、ひどいものになるとあれは『和釘』で釘ではありませんと平気で言う方がおられる。何とかしなければならない。
■『リカルチャー』
『錦帯橋』の平成の架け替えが始まった今日、事実は事実として『錦帯橋の釘』問題は解決しておきたいと思う。かつて、錦帯橋再発見と称して様々な取り組みがなされたとき、錦帯橋に関するリカルチャーディスカッションが開催された。ちなみに『リカルチャー』とは私の造語で、既成の文化を再構築、再検討、再教育、再学習しようと言う意味である。すなわち、ターゲットは『錦帯橋の釘』に関する大きな間違いをただすための言葉でもあった。
■『錦帯橋の釘』とロマン
そのリカルチャーディスカッションでは様々な発言が出たが、今でも印象的な言葉を上げると次のようなものである『1本の釘も使わずに錦帯橋が出来ているというのはロマンである、貴方はそのロマンを壊した。』と言うものである。『錦帯橋の釘』は現実からかけ離れてロマンの世界で語られる様になっていたのかとそのとき思った。
■児玉九郎右衛門のロマン
私はそのとき、この『錦帯橋の釘』を無視することは創建者児玉九郎右衛門等を著しく冒涜する行為であると断言した。『錦帯橋』の創建の苦しみを知らない無知な人々の愚かな行為が『錦帯橋の釘』の重要さを歪曲させて今日に伝えたと断言をした。
それを契機にして、岩国市の『錦帯橋』の案内文やアナウンスは修正され今日に至っているが、様々な印刷物や本が一人歩きをしており未だ完全には修正されていない。それどころか、今日の錦帯橋架け替えに併せていろいろな紹介がされるたびに、間違った表現が目立つようになってきた。
さらに、最近では再び『釘には頼っていない』と言うような全く真実を無視した発言も出てきているので、あえて本文をしたためたというわけである。『錦帯橋の釘』は児玉九郎右衛門のロマンである。
■木と鉄のハイブリッド構造
木組みの『錦帯橋』と言う表現が先行し、極めて巧みな技巧で『錦帯橋』が造られている様な錯覚を植え付けている。構造学的に言えば第2,第3,第4橋は橋台を除けば『木と鉄のハイブリッド構造』である。児玉九郎右衛門の創建の思いは極めてシンプルな『木と鉄のハイブリッド構造』である。それは、創建当時の『錦帯橋』には鞍木と助木(肋木)が取り付けられていないことを見ても明らかである。そしてそれを実現したものが『錦帯橋の釘』すなわち児玉九郎右衛門のロマンの釘である。
■『錦帯橋の釘』は児玉九郎右衛門の誇りと自信の支え
すなわち、鞍木と助木のない創建時の『錦帯橋』はカテナリーにそったシンプルな形状であったことが分かる。これは、とりもなおさず、発明した『巻金と釘による木材の組み立てアーチ』への高い自信と誇りでもあった。つまり、児玉九郎右衛門は当初から『巻金と釘』に自信と情熱を持っていたことが分かる。その『錦帯橋の釘』に対して今日の我々は正しい評価をして差し上げるべきである。
■おわりに
おわりにかえて『錦帯橋』に対する誤解一覧を列記する。『錦帯橋の釘』だけでなくこんなに誤解がある。
『錦帯橋』に対する誤解一覧
■釘を使わない方が優れていると思う誤解
■巻金だけで効果が現れていると思う誤解
■鞍木が適当に配置されていると思う誤解
■鎧桟(蔀桟)が適当に配置されていると思う誤解
■鼻梁、後梁等が適当に配置されていると思う誤解
■大棟木の下端のカーブが適当なカーブと思う誤解
■1674年から1950年まで風雪に耐えたと思う誤解
■アーチが円弧であると思う誤解
■錦帯橋の揺れ方の誤解
■橋台と橋脚の区分の誤解
■現橋が創建時と同一と思う誤解
■技術を進展させることが文化財としてマイナスと思う誤解
■その他
私は誤解を解消し真実を伝えることの重要さをつくづく感じる。数年前岩国西ロータリークラブではリカルチャー運動をし、『錦帯橋再発見』という小冊子を発刊した。その小冊子は当時の岩国の小学生高学年、中学生全員にお届けした。この中に『錦帯橋』は『木と石と鉄の芸術』と強く訴えた。平成の架け替えを契機に『錦帯橋』のさらなる理解を願いたいものである。最も誤解を生むぐらい『錦帯橋』のことをまず思っていただきたいとも思う。
松屋産業株式会社