「凌雲気(りょううんき)」と山本五十六(やまもといそろく)

「久義萬
(くぎまん)」蔵の扁額(へんがく)とその背景   中島修三

[はじめに]

  岩国市今津町にある「久義萬(くぎまん)」は、創業百七十余年の老舗割烹旅館として、市民の誰もが知っている、岩国で最も由緒ある旅館です。この「久義萬」が時代の流れに抗しきれず、今年三月一杯で閉店されたことはとても残念なことでした。
  新企画での新しい発展を祈ります。
    「久義萬」は第二次大戦中は旧海軍の指定旅館となっていましたし、日米開戦前後の時期には、岩国市の柱島沖が連合艦隊の泊地となっておったために、旗艦「長門」や「大和」を中心とした主要艦艇は、この時期には主に柱島沖に集結停泊し、ここから出撃していました。  
  また、日米開戦直前の昭和十六年(1941年)十一月八日には、真珠湾攻撃のための作戦説明会議が、岩国海軍航空隊基地内で開催されたことなどもあって、山本五十六連合艦隊司令長官を始め多くの方々が   「久義萬」に滞在されたということです。
  (上記の作戦会議が行われた「三〇〇講堂」は、今も岩国米軍基地内に現存しています。)  
  このような事情もあって、「久義萬」には、山本五十六長官が日米開戦前後の時期に揮毫し、当時の「久義萬」店主の釘屋萬次氏に贈られた「凌雲気」の扁額が、今も残っているのです。

 この「書」は、その筆跡の見事さもあり、書家も高く評価している貴重なものですが、山本長官が「凌雲気」と書かれた、その意味については、今まで「これは『雲を凌ぐ程の意気盛んなこと、勇気天を突くと言った意味』であって、真珠湾攻撃直前の山本長官が当時の心境を書かれたものでありましょう。」(小野蘭二氏「解説 」)との解釈が一般的にされてきました。
    けれど私には、当時の山本長官の心境が、そのようなものであったとは、とても思われませんし、また長官がそんな意味を込めた「書」を揮毫される筈もない、との想いもあり、上記の見解には疑問を持たざるを得ませんでした。
  と言うのは、山本長官は日米開戦前は、米内海軍大臣、山本次官、井上軍務局長の海軍左派(良識派)トリオとして、日独伊三国同盟に反対するなど、日米開戦に反対し続けておられたのです。
  さらにその後、開戦やむなきに至り、真珠湾攻撃敢行の後も、一時
(いっとき)の奇襲戦での勝利に酔い「アメリカ何するものぞ」といった風潮や考え方を強く批判され、当時から戦争の長期化と持久戦の行方をこそ、懸念しておられたことは、既に多くの資料で明らかです。
  ですから私には、当時の山本長官の胸中が、「勇気天を突く」と言ったようなものであったとは、到底考えられないのです。
  そこで私は、「凌雲気」と、これを書かれた山本長官の心境や背景について、友人や学識者の方々の御教示やご意見を賜りながら、私の見解を纏めてみました。
  ご意見やご批判を戴ければ幸甚です。

「凌雲気」が書かれた時期。

  山本長官がこれを揮毫された時期は何時だったのでしょうか?
  久義萬の女将
(おかみ)さんのお話では、「開戦直前の頃に久義萬に来亭されて、当時の主人釘屋萬次に約束され、開戦後の昭和十七年二月か三月頃に送って戴いたと聞いております。開戦前はとても忙しかったと思われますので、開戦後に書かれたものではないでしょうか。」とのことでした。
  したがって、正確には判りませんが、「昭和十六年十二月の日米開戦の直前、直後の時期」と見て間違いないと思います。

「凌雲気」の読み方と意味。

  「凌雲気」の出典と読み方、その意味については、私の友人を通じて、広島大学名誉教授(漢文学)の藤井守先生からの次の御教示を戴くことが出来ました。それによれば。
  読み方としては、「凌雲
(りょううん)の気(き)」とも、「雲気(うんき)を凌(しの)ぐ」とも読むことができます。
  ただ、その意味は、「雲気を凌ぐ」の場合は、
「(龍)・・欲尚則凌於雲気 欲下則入於深泉」
「龍は、・・・たかき尚を欲すれば則ち雲気を凌ぎ、ひくき下を欲すれば則ち深泉に入る。」〈管子水池〉 というように「史記司馬相如伝」と同じ方向の意味となります。  
  また、「凌雲
(りょううん)の気(き)」の場合は、
「飄々有凌雲之気 似游天地之間意」(史記司馬相如伝) とあるように、お山の大将的な「小人」にあまんずるのではなく、「大人」の世界に超絶を志向する方向に理解するのがよいでしょう。(藤井先生の手紙より)

  読み方としては、「凌雲の気」と読んでも、「雲気を凌ぐ」と読んでもよいが、意味は同じ方向となるとのことです。  
  したがって私は、山本長官の「凌雲気」については、「世俗を超脱すること」とか、また「生死、私欲を超越した境地」などの意味を表すものと考えるのがよいのではないか、と思います。

日米開戦前後での山本長官の心境。

  それでは、山本長官は、どのような心を込めて、この「凌雲気」なる「書」を書かれたのであろうか?  
  まず、長官は日頃からこの「凌雲気」という言葉が好きであって、それを書かれたのではないか、ということが考えられます。
  そうであれば、「凌雲気」やそれに類する「書」が他にも有るのではないかと思われます。
  けれど、これについて、「久義萬」のおかみ女将さんにお聞きすると、このような「書」は、他には聞かないということです。  
    だとすると、やはり長官が当時、自らの心境や想いを込めてこの「書」をお書きになったと見てもよいのではないか、と思います。

  では、日米開戦前後の山本長官の心境は、どのようなものであったのでしょうか?
    これについては手紙や上申書などを基に、既に数多くの著述や出版物が出されていますから、ここでは、特徴的な資料のみを記したいと思います。

  日米開戦直前の嶋田海相への手紙。
   開戦直前の昭和十六年十月二十四日付で、山本長官が嶋田繁太郎海軍大臣宛に出された手紙があります。この中で長官は、「真珠湾攻撃計画」と当時の心境について、次のように述べていました。
  「・・・(対米作戦は)非常に無理ある次第にて、此をも押し切り敢行、否大勢にに押されて立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局桶狭間
(をけはざま)と、ひよどり越(ごえ)と、川中島とを併せ行うの已むを得ざる羽目に追い込まれる次第に御座候。(中略)  以上は結局小生技量不熟の為安全蕩々たる正攻的順次作戦に自信なき窮余の策に過ぎざるを以て他に適当の担当者有らば欣然退却躊躇せざる心境に御座候。」(阿川「山本五十六」下巻)

 海軍の最高指揮官が重大戦闘を前にして、「(対米作戦は)非常に無理ある次第にて・・・(真珠湾攻撃は)自信なき窮余の策に過ぎず・・・、欣然退却躊躇せざる心境です。(喜んで司令長官をやめたい)」などと海軍大臣に上申することは、決して安易に言える言葉ではありません。

  緒方竹虎への開戦直後の手紙。  
  また、開戦直後の昭和十七年の新春に、緒方竹虎からの「真珠湾攻撃など緒戦の勝利に対する感謝の手紙」に対して、長官は一月九日付で、次の返書を出しています。
  「元旦の御懇辞恐縮に堪えず候。敵の寝首をかきたりとて、武士の自慢には相成らず、かかれし方の恥辱だけと存じ候。切歯憤激の敵は、今に決然たる反撃に転ず可く、海に堂々の決戦か、我が本土の空襲か、艦隊主力への強襲か、ご批判はその上にてお願い致し度存候。兎も角敵の立ち直る迄に、第一段作戦完遂、格構丈にても持久戦体制迄漕附け度ものと祈念罷在候。」(阿川「山本五十六」下巻)
  開戦後の長官の考え方も、開戦前と基本的に変わらず、持久戦と将来への強い憂慮が窺われます。

「よくよく覚悟せり」長官の決意と苦悩

 私が、当時の長官の心境を知る上での重要な資料として位置づけるものに、開戦当日、即ち昭和十六年十二月八日付で、山本長官が親友の堀悌吉氏(海軍中将)に宛てた「述志」があります。
  これは、海軍次官室の金庫の中に納められていて、長官の戦死後堀氏に渡されてもので、謂わば「遺書」的な意味を持つものと思われます。
  「この度は、大詔を奉じて堂々の出陣なれば生死共に超然たることかた難からざるべし。ただ、此戦は未曾有の大戦にしていろいろ曲折もあるべく、名を惜しみ己を潔くせんの私心ありては、とてもこの大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり。」               (阿川「山本五十六」下巻)

 阿川弘之も、その著書の中で、「『名を惜しみ己を潔くせんとの私心ありては』と山本が言っているのは、やはり余程思いつめての、ひと一つの覚悟であったと思われる。」と記していますが、私も同感で、この「述志」にはとても強く惹かれるのです。
  「名を惜しみ己を潔くする」とは、古来我が国の「武夫
(もののふ)の道」の基本とされてきました。
  軍人として、それまでも私心として否定し、超えなくてはならないとすれば、それは、とてもとても大変なことであって、「よくよくの覚悟」でなければ到達できない、まさに「世俗を超脱する境地」ではないでしょうか。  
  山本長官のこの「覚悟」は、極めて困難な情勢のなかでの責任感、そして深い思考と苦悩の結果の到達点ではなかったか。  
  私は、そのように思うのです。

 不徹底な対米戦争反対論と山本五十六の責任。

 私が長官の心境のなかに「強い責任感と深い苦悩」を見るのは、山本五十六の「思想と行動」については、「不徹底な対米戦争反対論」との批判があり、このことを何よりも自覚し責任を感じておられたのは、他ならぬ長官自身ではなかったかと、思うからです。 「人間山本五十六」(太平洋戦争研究会編)は、次の如く記しています。
  「米内光政や井上成美が、終戦に至るまで対米戦争反対を貫き、終戦に当たっては率先して後始末に努力したのに対し、山本のそれはきわめて不徹底であったと言わざるを得ない。山本は連合艦隊司令長官にはならずに、たとえ暗殺の危険があったとしても、海軍大臣として辣腕を振るい、あるいは海軍次官にとどまって吉田善吾海相を補佐し、対米戦争をなんとしても阻止すべきではなかったか。」

 上記と同様の批判を井上成美(最後の海軍大将。筆者が海軍兵学校に在学中に校長であった。)も、山本長官への敬愛を込めつつ、戦後次のように述べておられます。
  「近衛(首相)に向かって、『是非やれと言われるなら一年や一年半は思う存分に暴れてご覧に入れます。』などと言ったのは、山本さんの黒星です。『海軍はアメリカと戦争できない。やれば必ず負けます。』と、分かりきったことですから、何故そう言い切らなかったのか。山本さんの為に惜しみます。」        (阿川著「山本五十六」)
  (注)山本長官が近衛首相にこれを言ったのは、昭和十六年九月二十四日でした。そして山本長官は上記の言葉に続き「二年三年先となっては、私には全く確信は持てません。」と言っていました。     (戸川著「人間提督山本五十六」上巻)

 井上成美らの上記の指摘は正しいと思います。しかし、それは、当時の情勢のもとで「暗殺されても・・・」と述べられているように、極めて厳しいものであったことも、また事実でした。  
  これについて、阿川弘之は、小説「山本五十六」のなかで、史実に基づきながら、次の如く記述しています。(括弧内筆者注)
  「昭和十五年、三国同盟条約調印のしら報せを聞いた米内光政(当時すでに予備役引退)は、緒方竹虎に対し、自分が海軍大臣であった頃のことを顧みながら、
  『我々(米内・山本・井上)の三国同盟反対は、あたかもナイヤガラ瀑布の一、二町かみて上手で、流れに逆らって船を漕いでいたようなもので、今から見ると無駄な努力であった。』と言って、嘆息した。  
  緒方がそれを聞いて、それにしても、米内、山本の海軍が続いていたら、徹頭徹尾反対し抜いたか?と訊ねると、米内は、
『無論反対しました。』
と答えてから、暫く考えて、
『でも、殺されたでしょうね。』
と如何にも感慨に堪えぬ風であったという。」(阿川「山本五十六」上巻)

「凌雲気」に込められた長官の心境

 言うまでもなく、日米戦争を防ぎ得なかった責任については、誰よりも山本長官自身が強く自覚しておられたでしょうし、対米戦争反対のみずか自らの考えとは反対に、連合艦隊司令長官として対米戦争の先頭に立たなければならなかった山本長官の強い責任感と苦悩は、私共の想像を超えるものがあったに違いないのです。
  それが、前記の「述志」にある「よくよくの覚悟」に表れているのではないでしょうか。そして長官は、「名を惜しみ己を潔くせん」ことさえも、私心として否定せねばならなかった「よくよくの覚悟」と深い想いを、この「凌雲気」の書に込められたのではないであろうか。
  私はそのように考えるのです。それが私の結論です。

[結びに]

 最後に、長官の書を鑑賞するにあたっては、鑑賞する人それぞれの想いがあり、解釈があっても良いのではないか、との意見もあります。私もそのようにも考えます。
  ことにこの「書」は、扁額としての価値も高く、「久義萬」さんにとっては家宝とも言える大切なものですから、それは尚更のことです。
  しかし、同時に私は、「凌雲気」の扁額とその意味、これを書かれた山本長官の当時の心境やその背景などを、正しく理解することは、今時戦争とその教訓を学ぶ上でも大切な問題であると考えているのです。  
  それは、当時に於いても、「どう考えても無謀である。」として、有識者の相当数が反対若しくは消極的であった日米戦争。 司馬遼太郎も「世界戦史にも類がない国家的愚行」とまで言い切った今次戦争を、何故我が国と国民は防ぐことが出来なかったのか?
  この問題を解明するためにも、当時の山本長官の「対応や考え」を、当時の情勢や環境などの史実と合わせて正確に知ることが大切であると思うからです。
  そうした意味で、私は「凌雲気」の意味とその解釈、当時の山本長官の心境について、こだわったのです。
  そして、上記の様な「私見」を友人達や専門家の方々の温かい教えを受けながら纏めることができました。
  どうか御参考にして戴ければ幸せです。
                                   (終わり)(2000.4.17.)

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