蘇堤の六つの橋を見て、広嘉が錦帯橋の基本構想を得ました。誰でも思いつくわけではなく、問題意識のある人のみが、着想できるのです。
基本構想を具体化する際に、中国から橋梁の知識を吸収したと考えられます。なぜなら、長崎にいる僧独立から、文献や、その知識のある人びとをさがすことができたからです。それでも、川幅200mという長い川に、流れない橋を架けることは、当時の技術そのままでは、不可能です。
不可能を可能にしたのは、二つの独創的な新機軸です。一つは、木造のアーチ橋を完全なものにしたことです。もう一つは、橋台と木造アーチ橋を併用して、長い橋を作ったことです。
僧独立が住んでいた頃の西湖 -西湖を北側から見た図です (警世通言、1624年)
錦帯橋の名前と姿は華麗であり、芸術的です。その橋名の由来は、多くの説があり、はっきり分かっていませんでした。今回、その名前の由来が分かりました。
西湖遊覧志の西湖図に、白堤の錦帯橋は、名前が記入されていません。錦帯橋と命名される前につくられた本だからです。その後、僧独立が生まれたときには、錦帯橋と呼ばれていました。西湖に住んでいた僧独立は、当然、白堤を広嘉に説明するとき、錦帯橋を追加するはずです。このとき、錦帯橋の名前が広嘉の心の中に鮮明に残ったものと思われます。
このように、岩国の錦帯橋は、はじめから、そのように命名されたと考えざるを得ません。ただし、文献的には、1976年に初出です。
宋の首都・虹橋
中国には、すでに11世紀末には、木造アーチ橋があった事が知られています。ただし、錦帯橋の方がより進んだ構造をしています。
僧独立が橋渡しをして、日中両国に錦帯橋が生まれました。国際交流をした歴史の所産です。国際交流の象徴として、抗州市と岩国市という二つの場所に、錦帯橋は存在していると言えるでしょう。
明朝西湖図 蘇提の六つの橋(西湖遊覧志、1547年)