岩国の錦帯橋は、日本の名宝です。国としても、すぐれた文化遺産なのに、錦帯橋は、なぜか国宝ではありませんね。不思議です。それはたぶん、我われの錦帯橋への愛が足りないのだと思います。愛は知なりと言います。まず、我われが、もっともっと、錦帯橋を知ることが必要だと思います。そこで、歴史の面から、錦帯橋のお話をすることにします。
そもそものはじまりは、1600年、関ケ原の戦いの後に吉川広家が岩国に移り住むことになったことです。
ここに橋が架かることになった第一の理由は、1600年に初代藩主広家が、岩国城と城下町を作ることになったからです。つまり、岩国の都市計画が出来た時、この場所に城門橋を架けることを、広家が決めたということです。
広家自身も、架橋を試みたでしょうが、17世紀はじめのことは記録がなくて分かりません。二代目藩主広正は何度か橋を架けましたが、すぐ流されています。最初の記録として、1639年、横山の渡橋守番人の規則が定められています。このことから、当時、橋があたことが推定できます。そして、1957年に完成した橋も、1659年5月の洪水によって流失してしまいました。
橋をたびたび流失したこと、ことに1659年の落橋が、のちに三代藩主となる広嘉に流れない橋を架けようと、決心させたのです。
橋が流れる原因・・・広嘉は、橋が流失する原因を検討しました。その結果、第一の原因は、橋脚が流木に押されて崩れることだと判りました。
広嘉は、流れない橋をつくるのは、非常にむつかしいと、分かっていました。そこで、長期計画を立てました。有識の小河内玄可・真田三郎右衛門らを、新橋考案の相 談人にしました。また、青年大工の児玉九郎右衛門を、橋専門の研究員に任命しました。
さっそく、1661年、児玉九郎右衛門を甲州(山梨県)大月にある猿橋の見学調査に行かせました。広嘉が注目した猿橋は、橋脚のない跳ね橋です。山間の渓谷、川幅30mの所にあります。両岸からだんだん桁をせり出して行き、水面から14m上に長さ31m、 幅4mの橋板を架けたものです。猿橋のような跳ね橋は、川幅30m程度の渓谷なら架けることができます。しかし、川幅200mとはるかに広い錦川において、そのままでは応用できません。よい工夫はないかと、困っておりました。
1664年に独立(禅僧)は、広嘉の治療のため、岩国へ招かれました。独立は、中国杭州から長崎へ渡来していました。明が亡び清の世になって、日本に亡命していたのです。長崎では、名医として有名でした。
独立が所持していた「西湖志(西湖遊覧志)」に、西湖の図がありました。その中に、蘇堤が描かれ、島から島へと架け渡されている六橋があります。独立が「西湖志」を開いて説明したところ、広嘉はこの図を見て、島伝いにアーチを架けることを、思い付いたのです。
なお、西湖は、中華人民共和国の浙江省杭州市にあります。景勝地として有名で、名所旧跡が多くあります。
唐代の白居易にゆかりの白堤があります。また、宋の時代に、蘇東坡が蘇堤を築いたとされています。
独立の存在があってこそ、木造アーチの直列という基本構想に、広嘉は到達しました。さらに、中国における橋梁の知識も独立を介して得たものと考えられます。また、広嘉の病気を治療し、軽快させたことも、忘れることはできません。
島伝いにアーチを架けると言っても、西湖と錦川では条件が違います。西湖の橋は、小島の土手に架かっています。しかし、錦川は洪水になるので、島(橋台)は石垣で固めなくてはなりません。そして、島(橋台)の数は、なるべく少なくし、形はなるべく小さくしなくては
なりません。
結局のところ、橋台は四つ、したがって橋(橋体)は五つと決まりました。しかし、五橋のうち両端の二橋は、
流れが弱いので、ふつうの柱橋にして、中の三橋を足のないアーチにしました。この木造の三連続アーチ(3スパンアーチ)というのが、世界でも類のない、すばらしい橋なのです。
なお、錦帯橋は全長約200mです。したがって1ス
パンは約40mとなります。
橋台の設計を担当したものは、宮原又右衛門と戸川理右衛門の二人でした。また、橋体を設計したのは、児玉九郎右衛門です。
基本的な構想から架橋の実施まで、十年近くの歳月がたっています。この間に、頭で考えるだけでなく、実験と改良をしています。橋台も橋体もそれぞれ、どんな構造が最もよいか調べています。
とくに、錦帯橋創建の前年である1672年に、児玉九郎右衛門は長崎に行っています。橋の設計を仕上げるためと思われます。
架橋の見通しがつくと、広嘉は関係者を集めて、何度も討議しました。そして、精密な計画が立てられました。
橋台・橋体の設計ができたところで、1673年に架橋に着手しました。まず、木造アーチの桁と梁の部分の組立を、横山の蓼原で予行しました。そして、梅雨明けの6月28日、橋台の起工式を行いました。工事の記録がないので、詳しいことは判りませんが、9月30日の夜までに、錦帯橋は見事に完成しました。わずか3ヵ月という、その速さには驚きます。
木材や石材を事前に準備しておきました。ついで、木造部分や石垣は、いちど組み立ての予行をしています。 さらに、四つの橋台を同時着工して完成後、五つの橋体 も同時に工事しました。これが、工期短縮に役だちました。
錦帯橋は広嘉の創建と伝えられています。それは、藩主としての名誉ばかりでなく、技術の面にも関与しているからです。
しかし、その創建は、多くの技術者が、長年苦心して研究した成果です。ただし、その功労者の児玉九郎右衛門にしても、彼をいちはやく登用して、橋体の研究をさせたのが、広嘉です。しかも、木造アーチの直列という基本構想に到達したのが広嘉ですから、錦帯橋の創建者とされるのも当然です。
広嘉が立てた長期計画は、まず、橋専門の大工を養成することでした。初めから、青年大工の児玉九郎右衛門を抜擢して、橋体の研究を命じました。
ついで、広嘉が基本的な構想を得てからは、考案の具体化になりました。橋体には、橋台にも増して多くの困難な問題がありました。広嘉の期待に応えて、長い年月ののち、設計を完成しました。多くの協力者があったとはいえ、技術者の代表として、その名誉を担うべき人です。
建設の翌1674年5月28日の洪水で、錦帯橋はよもやの流失をしました。中央の橋台二つが崩壊して、三連続アーチが落ちて流れたのです。
橋台そのものに欠陥があったのではなく、川床を固めていた敷石に不備があったのです。橋台周囲の敷石が洪水で端の方から剥がれて流れ、橋台の根元が掘れて淵になりました。そのため、橋台の石垣が底の方から陥没したのです。
橋台が崩れた原因が判明すると、ただちに、広嘉が再建を命じました。6月になり、水が引くと、橋台二つを築き直しました。それとともに、川床の全面に大石を敷いて、橋台の周囲が掘れないようにしました。
これによって、その後は、木造部の架け替えは行ってきましたが、橋台は全く造り直しせずにきました。
当時の岩国藩は、財政が豊かだったので、錦帯橋の創建、さらに再建が可能であったと考えられます。とくに、紙の専売によって多くの収入を得ていました。
再建された錦帯橋は、276年間も流れずに、保ってきたのです。たった一回の流失から多くのことを学びとったと言えるでしょう。
橋の木造部の架け替えは、10回あまり行われています。そのつど、桁の補強部材や、らんかん、敷板などに、改良変更が行われています。
1950年、キジア台風による洪水で、錦帯橋は再び流失しました。中央の橋台一つが崩れて、二つのアーチが流されました。
前回と同じく、敷石が剥がれて橋台が崩れたのです。数年前から、敷石の剥落があったのに、修復するのを怠っていたからです。
1953年、復興再建したときは、木造アーチの部分は、1801年の架け替えの様式に復原してつくられました。
しかし、木造アーチの根元と橋台の部分は、すっかり近代的工法に改められました。これでもう、橋台が崩壊する心配はなくなりました。
石垣は、もう必要ないわけですが、旧観を保つために取付けてあるのです。敷石も同様に、もうなくてもよいのですが、これも旧観を保存するために敷いてあります。
錦帯橋の本当のすばらしいところは、外観の調和の美と木造アーチにみられる構造の精巧さです。錦帯橋は、長い歴史の中で多くの人々に守られ、いちどもその美しさと機能を失うことなく、歴史とともに今日に到ってきました。
今後も、錦帯橋の未来に向けて、定期的に橋の木造部を架け替えます。その時に備えて、ケヤキを植えています。
みなさんが、錦帯橋の美しさと、構造の精巧さを理解して下されば、錦帯橋は、ただ日本の名勝にとどまるものではなくて、世界に誇れる日本の文化遺産として、きっと、国宝になるものだと信じています。