やまぐち論点
『遊と理』のすすめ

松屋産業株式会社
代表取締役 松塚 展門

■ 
プロロ−グ

 私たちを取り巻く世界は様々である。不景気風が一向におさまらないのを嘆く一方で平和なお正月が迎えられただけでもいいではないかと思ってはみる。しかしいったん目を世界に向ければ依然として内乱に苦しんでおられる国々もあることを考えると、何を『尺度』にあるいは『ものさし』にものごとをとらえ、考えたら良いのか戸惑ってしまう。もっとも、このように考える私が多少異常なのかもしれないが、興味のあられる方はこの後1000文字程度おつきあいを戴きたい。
 そんな余裕なぞないとおっしゃる方はここで次の記事に目を転じられたほうがよい。ただし、本当はそんな人にこそ『遊と理』をお勧めしたいのだが・・・。

■ 30cmのものさしで地球を測れと言うのか

 誰でも30
cmのものさしで地球を測れと言われたら、そんなばかなこと出来るものかと即座に答える。理論的に考えたら出来なくはないが、手間暇がかかると言うことである。別の表現をすれば歩いて地球を一周しろということと同一である。これらは特別の目的がある場合を除いて誰もそういいつけられても実行しない。しかし現実はいかがなものであろうか・・・。

■ 直観出来るとき

 人は自分の使い馴れた『ものさし』で自分の理解出来る範疇の事柄を測りまわすときがもっとも楽で安心なのである。『ものさし』を『道具』と置き換えても同様なことがいえる。しかし『石器』に馴れ親しんだ人たちは確実に『鉄器』に馴れ親しんだ人たちに敗退した。この事実は自分の使い馴れた『道具』からの転換に乗り遅れた人々には死の贈り物しか残されていないことを暗示させた。当然のことながらいつの時代においても人々は新しい『ものさし』、『道具』に飛びつきその使用方法を学習してきた。それは、新技術を学習することが自分たちの将来にとって有利であり平和であると直観出来たからである。

■ 直観出来ないとき

 この直観出来たと言うことが、実は大切なことである。『石器』から『鉄器』への転換は人々にとって『命』との引替えになるほど重要かつ顕著なことであり、その変化の潮流は直観出来た。しかし今日の社会に起きている変化はいかがであろうか、多くの人々はまさか『命』まで・・・と思っているのではないか。見える『ものさし』、見える『道具』なら判断に狂いのない人類であったが、今まさに見えない『ものさし』、見えない『道具』、すなわち直観出来ない、見えない何かが発生してきており、これを自由に操ることのできる人種とそうでない人種の大きな交代が目前に迫っているようである。
 お断りしておくが、何もこの見えない『ものさし』、見えない『道具』をある特定のもの例えば、コンピュ−タとか社会システムとかに限定しているわけではない。

■ エピロ−グ

 コンピュ−タとか社会システムとかに限定しているわけではないが、これで説明するのが一番簡単なのでお許しをいただきたい。コンピュ−タに限って言えば平気で30 のものさしで地球を測っているのと同様な勘違いをした前近代的な人たちがいる。彼らはまだ良い方で未だに30
cmのものさしを持つことすら知らない人たちがいる。社会システムにしても同様である。いつまでも市町村、都道府県という前近代的な枠組みと尺度でしかものごとを考えられない人たちがいる。人的にも、物的にも、もうこの日本には無駄は許せない。人は人としてその豊かな創造性を発揮出来ることが最も重要である。もっと極論すれば、全人類一人一人の豊かな創造性の根源である『脳』の自由な活動を阻害する全ての障害はすぐさま排除されるべきである。これを実現する手段として私は『遊と理』を推奨している。紙面がもう少しあればもっと詳しく説明出来るのだが、お許し戴きたい。ただし、これまでの『論点』から優秀なる読者の皆様方にはこの『遊と理』の概念はご理解戴けるものと確信している。人間は自己の新陳代謝速度が社会のそれに比して遅れをとったときが引き際だという考え方があるがいかがなものであろうか・・・。
『遊と理』をもって生きよう。


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